禅語「一月浮万水」と京王線刺傷ジョーカー男を考える。
禅語「一月浮万水」(いちげつばんすいにうく)を紹介します。
月は一つしかありませんが、万水=至るところにある水にその姿を映します。
禅語の意味は、仏性はどんな人にも宿っている、という教えです。
禅の世界では、人は誰もが、その心に仏が宿っているという教義を持っています。
月とは仏の心。それは、あらゆる場所に宿っているという意味です。
水だけでなく、木や草にも仏性は宿ると考え、崇めています。
座禅や修行を通して、己の心にある「仏」と向き合う。自分自身が仏なのだという悟りに至らしめる教えが禅の基本です。
神は、イエスであっても、イスラムの神であっても、第三者的な存在として描かれますが、禅では自分自身が仏であり、それは誰の心にも宿っているという教えです。
ところが、京王線の電車の中で人を殺めようとするジョーカーであっても、その心には「仏」がいるのでしょうか。
自分の本質と向き合った時、彼の目には仏が、ジョーカーとして見えてしまったのではないのでしょうか。
そして、私たちにも犯人を蔑む目で見るのは当然でしょうが、彼の心にも仏性があるのだと考え、彼を見ることはできるのでしょうか?
彼が心にジョーカーでなく、真の仏を見るように導くことが叶うなら、彼のこれからの人生が人間らしく生きる方向に導くのではないでしょうか。
いいえ、答えはありません。
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