牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

呪いのクロユリ伝説

 ユリ(百合)

 呪いをかける花~戦国時代のクロユリ伝説

ユリは夏の花と呼ばれますが、種類が多く、開花時季は5月から9月までと幅が


あります。花暦では7月はユリとクチナシですが、このユリは7月に花が咲く


ヤマユリを想定してのこと。万葉集にユリとあるのもヤマユリを指していま


す。日本特産のヤマユリは花が直径20~25センチとユリの中では最も大


きく、ユリの王者とも呼ばれています。「茎細く花が大きく、そのため花が


揺り動くことから揺りという」(日本釈名)とありますように、その名は花


が風に揺れる美しさから生まれたそうです。


 ユリは海外でも自生し、世界の花の中でも最も古くから知られた花の一つ
です。日本でも種類が豊富でユリの世界的な産地です。スカシユリ、タケシ
マユリ、テッポウユリ、ヒメユリ、オニユリなどなど。一番先に開花するの
はスカシユリで5月に咲きます。タケシマユリやテッポウユリは6月に。ヒ
メユリは7月。オニユリやカノコユリは8月、九月になるとタカサゴユリが
開花します。


 ヨーロッパでは、ギリシャ神話にも女神ヘラの母性を象徴する花として登
場し、キリスト教ではマリアの処女性と受胎を表現する花として尊重されま
した。受胎告知をテーマにした多くの絵画には、聖母マリアにユリの花を捧
げる天使の構図が描かれています。


江戸時代末期に、紫陽花をめぐる逸話や
蘭学の普及などで有名なシーボルトが、テッポウユリの球根も故国に持ち帰
ったことで、オランダからヨーロッパへ「オリエンタルリリー」として急速
に普及したそうです。


明治時代には、テッポウユリの球根は生糸とならんで
日本からヨーロッパへの主な輸出品の一つでした。そのオリエンタル種のユ
リが、花卉産業のさかんなオランダで更に品種改良され、オリエンタルハイ
ブリッド種として、日本へ逆輸入されるようになったのです。ユリは鑑賞す
るだけの花ではなく、球根は食用にもなります。


生薬としても用いられてきました。球根は鱗片の集まりで、鱗片は葉の基部に養分が蓄えられ、肥大化したものです。実生で最初一枚の葉がでると、一片の鱗片が出てきます。つ
いで葉が二枚、三枚と増えるにしたがって、鱗片も同枚数を増やします。百
枚の葉が出ると鱗片も百枚と合わさって出来るため、「百、合う」の意味で
百合の言葉が充てられました。鱗片には養分が含まれたことから古くから食
用としても栽培されています。


百合は寒さに強く、夏の開花までに様々な苦難を乗り越えています。秋に
球根を埋めますと、細かい根を伸ばし、それぞれの養分を吸収しながら長い
冬に耐えて力を蓄え続け、春が来ると蓄えた力を新芽に注いで、土中深くか


ら一気に地上に芽吹かせるのです。人生に例えるなら、苦労はやがて実を結
ぶということでしょうか。


可憐な姿から「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と日本では親し
まれてきました。


花言葉は「荘厳」(ヤマユリ)オニユリ(「賢者」「富と誇り」)など様
々ですが・・・黒百合の花言葉は「呪い」です。これは戦国時代、武将(佐々
成政)の話しから来ているようです。


富山城の主・佐々成政(さっさなりまさ)は名を馳せるために秀吉討伐を
もくろんでいました。そこで、討伐の約束を交わした徳川家康を訪ねるため
、険しい佐良峠(ざらとうげ)を越えました。しかし、苦労虚しく家康の心
変わりにより成政の野望は打ち砕かれてしまいます。
城では成政の最愛の姫・早百合が彼の帰りをしおらしく待っていました。
しかし、その溺愛ぶりに嫉妬した側室たちの悪い計らいにより、やっと城に
帰ってきた成政は早百合の不貞と裏切りを聞かされてしまいます。その嘘を
信じてしまった成政は激昂にまかせ、真実を確かめることもなく、一途でい
た早百合を斬ってしまいました。
早百合は死の間際、「もしも立山にクロユリの花が咲いたら、佐々家は滅
亡する」と言い残します。そして早百合の怨念は、息絶えた一本榎の木に留
まり、ある時は鬼となり、ある時は火の玉になり現れることとなります。
やがて、立山に一輪のクロユリが咲きました。それからというもの、成政
の不運は続きます。決定的になってしまったのは、秀吉にクロユリを差し入
れたこと。そのクロユリが、秀吉の正室・淀殿の策略により秀吉の正妻・北
政所の怒りを買い、成政は失脚、秀吉に切腹を言い渡されてしまうのです。
絶望した成政は自害し、早百合の予言どおり、佐々家は滅んでしまいまし
た。