牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

超難解・禅語「忘牛存人」 自分探しの極意

超難解・禅語「忘牛存人」


文字面を読めば「牛を忘れる人が存在する」です。
しかし、どういう意味なのでしょうか?
超難解な禅語です。


「十牛図」という中国の宋の時代の禅の入門書があります。
そこに一頭の牛が登場します。
牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、
あばれると非常に強く、手がつけられなくなります。
その姿はまるで、人間の心の様子に似ています。


「十牛図」は、その牛を探しに旅立った人を紹介した話です。
それは、自分の牛を探し求める、つまり自分の本当の心、ありのままの自分、自分探しの旅なのです。
では「自分で自分を探す」とはどういうことでしょうか。それは、自分のことをよく知ることです。自分のことを知ることで、自分にとっての幸せとは何か、考えられるのです。大切なものが分かれば、生きることに目標を持つことができ、迷いがなくなります。


しかし、この「自分にとっての大切なもの」に気づくことが難しいのです。病気になってはじめて健康の大切さを知るように、あたりまえの幸せには、なかなか気づけません。他人と比べて、自分に足りないものばかりを見てしまいます。さらに、知識や経験が増えてくると、自分が一体どうしたいのか、分からなくなってしまうでしょう。


① 自分にとっての幸せは、本人にしか分かりません。だれも自分の代わりに「大切なもの」を探してはくれないのです。そして、それを見つけることは簡単なことではありません。しかし、まず探しはじめたことに意味があるのです。


②歩きまわって疲れが限界にきた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。
そこで、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。
人から教えてもらうことで、自分探しの手がかりを得たのです。


③ 結局自分探しで見つけた自分とは「こうなりたい」という自分自身の姿です。
いろいろな人からの教えや他人の人生を参考にしながら十分考えた自分だけの目標です。
目標があれば、そのためにするべきことが何なのか、自然に分かるようになります。そして、その目標に近づくために必要なものは、自分の本来持っている感覚や日々の行いなど、決して特別なものではありません。
目標を追いかけてきた自分は、やがて目標によって成長していきます。牛とは目標であり、目標を得た自分は目標と一体です。もはや別のものではありません。

④ 探していた牛(目標)に気づくきっかけは、人によって違います。

足あとだったり、においだったり、ひょっとして偶然かもしれません。でも、いずれにせよ、どんなに小さな鳴き声でも聞きのがすまいと思っていたからこそ、聞くことができたのです。意思があってこそ、目標を探すことが出来たのです。

⑤ これを読んでくださっている人の中には、何か新しいことを始めてみようとしている方もいらっしゃると思います。どんなことでも、最初のうちは身につくまでに時間がかかるものです。でも今までできなかったことが、当たり前のようにできるようになるためには、多くの迷いや悩みを自分なりに解決しなければなりません。でも、その道のりで得たものが本当に「身についたもの」になるのです。しかし、目標(牛)を見つけて縄をかけてつかまえたとしても、まだ安心はできません。油断をすれば、牛に引っ張られてケガをするし、見失ったり、道に迷ってしまいます。


⑥ 何かを身につけたいと思うなら、まずは、なれることが大切です。はじめのうちはできなくても、何度もやってみるうちにできるようになるかもしれません。「いつかはできるようになる」と思いこめば、続けていくことができるでしょう。自分が成長したことは、自分が一番気づきにくいのです。
自分にとっての幸せや、こうなりたいという目標を達成するには、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、ことが必要です。


⑦ 人は日々の生活のなかで、さまざまなことを学びます。しかし、その学んだ知識や、つみ重ねた経験があればあるほど、自分の目指すものが本当にそれでよいのか、迷いが出てきてしまうこともあるでしょう。生きているかぎり、不安や悩みはついてくるものです。大切なのは、「できるか、できないか」ではなく、「そうなりたい」と思う強い気持ちなのです。


⑧ 禅の教えとは、物事にこだわらず、あるがままの心を持つことで、自分を見失うことなく生きることができる、というものです。「こうでなければならない」というのは、きゅうくつな生き方である、と禅は説きます。「金剛経(こんごうきょう)」というお経には、次のような教えがあります。「お釈迦さまはいつもおっしゃいました。『修行をする人たちよ。私の説法は、筏(いかだ)のようなものだと心得なさい』と。」筏(いかだ)は、川を渡るためには必要なものです。しかし、川を渡ったあとも、いつまでも筏(いかだ)をかついでいるのでは、かえって荷物になるばかりです。病気が治ったのに薬を飲みつづければ、薬も毒になります。仏教もまた同じなのです。


たとえば、水があふれんばかりに入ったコップがあるとします。このコップで、別の飲み物が飲みたいとき、どうしますか。水をほかの容器に移したり、飲んだりして、とにかくコップの中を空っぽにすることでしょう。


 コップの中の水は、人のこだわりや価値観です。この、こだわりや価値観を、いったん空っぽにしなければ、ほかの考え方を受け入れたり、ものごとを自由に考えることはできない、というのが「空(くう)」の教えです。


 たしかに、こだわりや価値観は、ときに迷いをふりはらったり、行動のよりどころになったりする面もあるように思います。しかし、こだわりも価値観も、絶対に変わらないものかといえば、自分の都合や人の意見によって変わってしまうこともあるでしょう。


 こんなふうに、自分では確かなものだと思っていることでも、じつは案外たよりないものだったりするのです。たよりないものに、いつまでもしがみついていてはいけません。それは、川に流されているのに、自分で泳いでいると思いこんでいるようなものです。

⑨ 旅人は、自分のやるべきことは何か、幸せとは何かを探していました。「さとり」とは、その答えが自分のなかにすでにあったと気づくことです。しかし「十牛図」は、その「さとり」でさえ忘れなさいと説いています。ひとたび目標や幸せに気づくことができたなら、もはやあれこれ考える必要はないからです。


⑩ 日々のいそがしさの中で、幸せを感じたり、目標を見失ったりすることがあります。また、知識や経験が増えてくるにつれ、あれこれ考えをめぐらせてしまいます。そんなときは、悩みや迷いだけでなく、幸せや目標のことも忘れればいいのです。苦労したあげく手に入れたものは、そう簡単に失うものではありません。風が吹けば花びらは散ります。でも、だからといって木が枯れるわけではありません。花にこだわるより、根をしっかり張ることのほうが大切なのです。

禅語「一月浮万水」と京王線刺傷ジョーカー男を考える。


禅語「一月浮万水」(いちげつばんすいにうく)を紹介します。


月は一つしかありませんが、万水=至るところにある水にその姿を映します。
禅語の意味は、仏性はどんな人にも宿っている、という教えです。


禅の世界では、人は誰もが、その心に仏が宿っているという教義を持っています。
月とは仏の心。それは、あらゆる場所に宿っているという意味です。


水だけでなく、木や草にも仏性は宿ると考え、崇めています。


座禅や修行を通して、己の心にある「仏」と向き合う。自分自身が仏なのだという悟りに至らしめる教えが禅の基本です。


神は、イエスであっても、イスラムの神であっても、第三者的な存在として描かれますが、禅では自分自身が仏であり、それは誰の心にも宿っているという教えです。


ところが、京王線の電車の中で人を殺めようとするジョーカーであっても、その心には「仏」がいるのでしょうか。


自分の本質と向き合った時、彼の目には仏が、ジョーカーとして見えてしまったのではないのでしょうか。


そして、私たちにも犯人を蔑む目で見るのは当然でしょうが、彼の心にも仏性があるのだと考え、彼を見ることはできるのでしょうか?


彼が心にジョーカーでなく、真の仏を見るように導くことが叶うなら、彼のこれからの人生が人間らしく生きる方向に導くのではないでしょうか。


いいえ、答えはありません。

「金風吹玉管」は「秋風が玉の笛を吹き鳴らす」との意味

今日の禅語は「金風吹玉管」(きんぷうぎょくかんをふく)


「金風」は秋風のこと。


「玉管」は玉でつくった笛のこと。




意味は「秋風が清らかに玉の笛を奏でているよう。


味わいのある美しい音色で秋の気配を感じます。


しかし、いったい誰がこの曲の素晴らしさを


聞きわけてくれるのでしょうか。


その本質を理解できるのでしょうか。




黄檗禅師の教えはどんなものかと問われた僧が、その答えとして言われた禅語です。




後句に「~那箇是知音」がつき、秋風に吹き鳴らされる玉の笛の響きのような説法を聞き分けて、悟りに近づくことができる人物が今の世にいるだろうかの意味になりました。




秋の茶席によく用いられます。




秋は色では金色、白色。


詩人で、北原白秋という名前の方がいました。




最近よく飲むビールは金麦。麦の色が黄金色に輝くからでしょう。




風で揺れる黄金色の稲穂のことを「穂波」とも呼びます。


日本語の美しさを感じます。


ちなみに、グーグルの画像検索で一番最初に出てきた穂波はこちら

いやいや、稲穂の波打つ様を見せたかったのですが・・・・苦笑