牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

「耳なし芳一」 耳に般若心経を書かなかった理由

小泉八雲の「怪談」に書かれた「耳なし芳一」の話をご存知ですか。
芳一を魔物から遠ざけるために、体に筆書きされたのは「般若心経」です。
書き損じた耳だけを持っていかれる話ですが、どうして耳だけ書くのを忘れてしまったでしょう。この話を読んだ頃の幼い私には理解不能でした。




般若心経は空の概念を紹介しています。
この空(くう)という考えが大昔からあったことで、インドは7世紀に「ゼロ」を発見することが出来たと言われています。
しかし、「ゼロ」は「無」ではありません。
日本では「零」とも表記するのですが、天気予報で降水確率を「れいぱーせんと」と言いますが、「ゼロパーセント」とは言わないのです。それは、零が無ではなく、かろうじて可能性がわずかながらあるから、だそうです。そういえば小さな企業を零細企業とよぶのも零がなんらかの可能性を持つからなのでしょうか?


この「般若心経」の「空(くう)」も「無」ではなく、「有」でもありません。
般若心経に出てくるフレーズの「色即是空」「空即是色」とは、「存在は空にほかならず」「空が存在にほかならず」と訳すので、意味が余計にわからないものです。


私の師匠は「桜」を空と呼びます。
春に爛漫に咲かせるまで、桜の木には、夏も秋も冬も、花咲く兆候もなにもなかったはずのもの。どこからか突然爛漫に咲かせる桜花に「空」を悟ったのです。


ドーナッツの穴」に「空」を例える方もいます。
ドーナッツの穴」はドーナッツがあって存在する。しかし、ドーナッツの存在がなければ「穴」も存在しない。有るのに無い、いや、元から無かった。けど確かに「ドーナッツの穴」という言葉があることが存在を証明している。
「存在しないように見えて存在する」それがこの世のすべてだと、般若心経は謳っています。


ところで、耳なし芳一の耳にだけ般若心経を描き忘れた理由は。あれは忘れたのではなく、魔物という存在を証明するためにあえて書かなかったのでは。誰の目にも見えない「無」という魔物の存在が、芳一の耳が消えることで「有」に転換される。無でも有でもないのなら、魔物こそ「空」かもしれません。