牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

「大河の一滴」から自殺を止める方法を考察する


「私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思いこんでいる。それを用意してくれるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう」と作家、五木寛之は著作「大河の一滴」で断言します。そして、この混迷の時代だからこそ、人生とはそもそも苦の連続なのだと覚悟するところから出直す必要があるのではないかと問いかけています。その背景には五木が一時休筆までして学んだ仏教思想があります。


この世は地獄であり、時として極楽でもある。
親鸞の「嘆異抄」の中に出てくる有名な言葉に「地獄は一定」があります。
一定は「いちじょう」と読み、「今ここにある確かなもの」の意味。
つまり、地獄は、私たちが生まれ育っている今、この瞬間、この場所だと言うのです


人によって、地獄の受け止め方も、地獄の様相も想像が異なるのでしょうが、たしかに、
地獄のような悲しみを味わう瞬間はあります。
愛する人と別れたとき、死別したとき、大きな困難に見舞われたとき、病に犯されたとき、
そして「心が萎えた」「折れた」とき。
私も自死へのあこがれを何度も強くしました。
一歩手前まで、後少しで体現する間近まで、自ら命を絶とうとした瞬間があります。


絶望を超えて、言えることは、「死は易く生は難し」三国志にも出てくる言葉。
「大河の一滴」の中にも、こんな文章がありました。


「自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、手をのばせばすぐとどくところにある世界なのではあるまいか。
ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げだすこともありえないことではない。
ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩みだすこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。」
(五木寛之先生の著作「大河の一滴」から抜粋)


道路の白線をまたぐように、
自殺することは日常であり、手を伸ばせば届くのが死なのですね。
誰しも死と隣り合わせ、生と死のすれすれできわどく生きているというのです。


そかしこの「人はみな大河の一滴」と語られた著作には
死から脱出する極意も解説されています。


それは、「時間」
五木寛之先生は
「時の流れは、すべてを呑みこんで、けだるい日常生活のくり返しのなかへ運びさっていく。
待つしかない。
それが人生の知恵というものだろう」
と解決策を語りながら、
「それはわかっている。わかってはいるのだが、その重苦しい時間の経過をじっと耐えて仔つあいだが、なんともやりきれないのである。」とも語ります。