牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

「忘却は心を洗う石鹸なり」間違いを犯した人へ、そして正義を振りかざす人へ。


人はどれだけの間、罪を背負って生きていけるのだろう。
正義をかざす人は「一生をかけて罪を償え」と正論をぶつける。
もちろん、被害者の苦しみを思えば、加害者がなにも思慮せずに、のほほんと生きていくことは許されないと思う。けど、一分、一秒、罪を忘れずに生きることは出来ないし、自分は生涯罪人と考えて生きる人は、何事にも劣等感を抱え、そんな生活が長続きするわけはなく、やがて、再び間違いを犯してしまう。
一度、罪を問われた人が再犯する確率が高いことも、この罪の意識を背負えばこそ、自分に自信が持てない生き方が過ちを引き起こすトリガーにもなるのです。私達は人種、性別、年齢、地位を問わず、間違いを犯す生き物です。
罪だけを見つめて生きることは、もはや生きる価値を失うこと。
あらゆる宗教が、救いを使命とし、その最大の許しこそ、罪への許しです。
キリストは全ての人の罪を背負い、磔られたのです。よって、今いる私達は罪を持たず、すでに許された存在だと教会では教わりました。
イスラム教でも「アッラーはすべてを許す」と教えます。
では、仏教では。罪そのものを認めていないのです。全ての人には仏があるのだと教えています。
世の中は、正論で溢れています。過去の過ちを白日にさらし、どんな罪をも許さない正義が、悪にまさる善だという主張がまかり通ります。
「生長の家」の開祖、谷口雅春氏の言葉を紹介します。
「忘却は心を洗う石鹸なり」
氏は「過去を忘れ、今を歓べ。忘却は貴方の人生を清める石鹸なのだ」と告げました。どんな宗教を抱えようと、私達は許されているのです。許すも許されるも、その前提には「忘却」が必要です。自分の罪を永遠に責め続ける姿勢は、生きることを否定してしまうことに繋がるのです。だから「石鹸で洗い流して忘却せよ」と励ますのです。法句経には「恨みは忘れるべし」の教えもあります。
永遠に悩み、苦しむことに何の意味があるのでしょう。
永遠に苦しめと迫る人、人を責める資格を持つ人など存在しないのです。

「自分さがし」と 禅語「月知明月秋花知一様春」

月知明月秋花知一様春



(月は明月の秋を知り、花は一様の春を知る)
「月花無心自不違其時言知作意也」(月花無心なるも自ら其の時を違えず知ると言う作意なり)と注釈のある禅語。


『ときに 麗らけき春
温もりと 生気みなぎる
春とは 如何 ?


咲く花に 問うてみても
花は 芳しく 香り 
ただ静かに佇(たたず)むのみ


春を 誘(いざな)い
春を 装い
春を 天地いっぱい 供する
花ぞ知る一様の春』


禅林句集より『花知一様春』


『自分探し』という言葉が聞こえて久しい時代です。


自分とは、自分が産まれた理由とは。自分の未来は。
多くの意味がこの自分探しに含まれていますが、
わたしの読んだ究極の自分探しは「他人から見た自分を探す」でした。


評価などは他人がするもので、自分には出来ない、という意味。


自然界ではどうなんでしょう?花や月は、自分を探しますか?


この禅語には、花も月も、自らが最も輝く時季を知っている、という意味が込められています。そこには「無心でありながら」、という解説も加えて。


無心になれない、邪推だらけの人生であり、間違いばかりの自分だからこそ、人はおのずと正しい道を求め、自分という、本来ありえない、姿を求めて探し彷徨うのでしょう。


人は決して無心に、なれないのです。
邪推、間違い、それも人としての本望。すべてを含んで人なのです。


悟ったところで、そこが高慢の始まり。人は修行し続けるしかないのです。


花や月のように、人知れぬ山奥で咲いたり、厚い雲に覆われ、だれの目にも触れない天高くで輝いても、ただ、ひたすら、全力で咲き、輝くのが無心なのです。


だからといって、人間は駄目な理由ではありません。自分を知るからこそ、
やれることがあるのです。今日一日を輝かせるために。自分が精一杯をやる、これが人の輝く時季であり、探し求める自分ではないでしょうか?

8月6日 今日の禅語は「全機現」です。

人はあらゆるものとの出会いを通して、豊かに、幸せになる生き物です。
出会いとは、美しい景色であったり、感動するスポーツのシーンであったり、時には美味しいものをいただいた時。さらには、本を通して新しい知識に出会った時も幸せになります。古来、日本人はそんな出会を「縁」と表現して来ました。縁に出会うことを「結ぶ」と表現します。縁を結ぶ、なんて素敵な言葉なのでしょう。言葉を通して素敵な出会いを結べたら幸せです。



8月6日 今日の禅語は「全機現」です。


意味は「生きている今この瞬間を全力に生きること」


曹洞宗の道元禅師が残した言葉で、生と死について説いた言葉です


全機現の全は全宇宙のことを指し、機とは絶大なる力ということを指し、


つまり、「生も死も、全宇宙の絶大なる働きによるもの」
難しい言葉ですが、道元禅師は、「生は生、死は死でありそれらは全く別のものであり、それに一切の繋がりはない」と解説しています。


つまり、生と死は全宇宙のあるがままの働きによるもので、自分たちの力でどうこうできるものではないのです。


人は生きると死ぬということを繋がって考えてしまうから、生に執着し、死ぬことを恐れます。死にたくないという執着は、逆に生きることに苦を感じ、自分を追い込んでしまうため、一度きりの人生を台無しにしてしまいます。


生と死という概念にとらわれることなく、生は生として、生きている今この瞬間を全力に生きることが大切、それが「全機現」です。


私たちは、いつ来るかわからない死に怯えて生きています。


例えば、老後に備えて準備することは大切かもしれません。


しかし、老後に「怯えて」行動してはいけない。
あくまでも今やるべきこととして、今何が必要かを考え、今この瞬間を全力で生きようとして起こる行動でなければならないのです。


不安であれば、考えるばかりで行動ができず、時間だけが過ぎていく。


不安も執着も捨て去った人は、人生に迷いがない。今やるべきことが明確であるため、立ち止まることなく、自分自身が信じる道をしっかりと進むことができるのです。


あれこれ考えることなく行動していきたいものですが、なかなか難しいですね。


そうすれば、今よりももっと毎日を充実させて人生を過ごせるのはわかっていますけど。