牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

本日の禅語  「山中無暦日」

今日の禅語 山中無暦日



世間を離れ、歳月が経つのも忘れてのんびり暮らすことのたとえ。


[由来] 「唐詩選」に収録された、太たい上じょう隠者という謎の人物の詩の一句。


たま松樹の下に来たり
枕を高くして石頭に眠る
山中暦日無し
寒尽くるも年を知らず


 太上隠者、太上とは最高という意で、すばらしい隠者(世捨人)という意味です。暦日とはこよみの事、枕を高くとは安眠熟睡すること。
 太上隠者は、偶然この清閑な山中の松の樹の下に庵を結びます。夜は大石の上で枕を高くしてぐっすり眠ります。思えばこの山中に入って幾年になるだろうか。今年もまた寒がつき、春めいて来たようだが、今年が何年だか一向にわからないというのです。
 一切を放下して洒々落々に無に徹して小鳥の声と風の音だけの山中の静寂そのものの中にいると世間的な時間を忘れてしまうものです。
時間を超え、空間を超えて、何のこだわりも、とらわれもない、ゆったりとした、おおらかな消息を、「山中暦日無し」と頌したのです。


 「山中」とは文字通り山の中だけではありません。お茶席などでゆったりとした心配りを受けた時とか、友人の家を訪れた時、温かい歓待で時の経つのを忘れる事があります。そのお茶席、その家庭こそ、「山中」です。


 奥州路のある山中の寺の話です。
江戸時代、宝暦年間の陽春の昼下がり、一人の旅人が寺の玄関先に立ち、住職の在否をたずねます。他出中だと小僧が答えると、「それは残念、昼飯を馳走になろうと思ってやってきたのだが」「どちらからですか」「京からだ」。小僧は数百里も離れた京都からと聞いて、客間に通して茶漬けを馳走します。しばらくして客人は太筆を持ってこさせると、無地の襖に花鳥の絵を描いて、住職にくれぐれもよろしくと立ち去ります。夕方になって和尚が帰って来ると、小僧が報告します。和尚には心あたりがありません。「さては飯のただ喰いされたのか!」とくやしがる小僧をなだめて襖の前に立って絵を見ます。「池無名」と署名してあります。和尚はじいっと見入っていますが、「すばらしい絵だ!」と感嘆の声を上げ、「わしはこれから旅に出るぞ! 京に行ってこの画人にお礼を云って来る」と、突然寺を出て旅に出ます。京都に入って、「池無名」という画人をあちこち訪ねますが、そんな画人を知る人はいません。ある日、祇園の社で「池無名」と署名した絵馬を見つけ神主に住いを聞き出し、東山に住む「池無名」の草庵にやっとの思いでたどりつきます。草庵は書画に埋まり、そのすき間で夫婦がビワ三味線と琴を合奏しています。呼吸もぴったり、実にのどかです。和尚はいんぎんに手を付き、「あなたの花鳥の絵は見事なものです。寺の宝物とします」と御礼を述べます。夫婦は一瞬、弾奏の手を止め、和尚を見ます。「一言御礼を」「それはわざわざ」と会釈を返します。和尚はもう一度、頭を下げて、さっさと家を出て奥州の自坊に帰ります。夫婦もまた合奏を続けます。


 その「池無名」こそ脱俗の画人・池大雅(1723~1776)です。
池大雅と和尚の消息、おおらかでゆったり、まさに「山中暦日無し」の消息ではないでしょうか。毎日毎日、忙しい忙しいと云ってガサガサ動きまわっている我々にとってじっくり味わうべき話です

7月、おすすめの禅語


竹涼風清(たけはすずしくかぜはきよし)出典 『虚堂録』


旅立ちにあたって、道中の息災を願った詩句から用いられた禅語で、笹の葉が起こす清風の爽やかさに相手を思いやる気持ちが表現されたもの。旅立つものや出発するものへの祝福とも言われる言葉。


清寥寥(せいりょうりょう)出典 碧巌録


禅語。心が透き通って明瞭である状態のこと。自我や先入観にとらわれることなく、常に真っ白な心で接すること。


平常心是道(びょうじょうしんこれどう)出典 趙州真際禅師語録


禅語。人生に近道ない。当たり前のことを大切に育む日々を大切にすること。この「平常心」とは「普段通りの心の状態」ではなく、「日常の小さな行いもおろそかにしない心」を示しています。


和敬清寂(わけいせいじゃく) 出典 茶祖伝


茶道の心得を示す禅語。主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意味から、相手を認め、敬うことで、居心地のいい清々しい関係を築けると解釈される。


明珠在掌(みょうじゅざいしょう出典 碧巌録


明珠とは透明で曇りのない珠玉(宝石)で、「仏性」を明珠になぞらえており、自分の手のひらのなかにある仏性に目覚めて生きよの教え。大切なものは身近にあるとの教えから、自分をよく知ることが大切ということ。


自利利他(じりりた)出典 正法眼蔵随聞記


仏語。自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすこと。この二つを両立して完全に行うことは大乗仏教の理想・理念。


一時一処(いちじいっしょ)出典 雲門広録


その時その場所に自らの全てを託して生きる意味。今の時間と今いる場所を大切にしながら今日を生きるには、健康が何よりも大事だと説く。

 「一言芳恩」に励まされて・・・


梅雨入りを控え、不安定な空模様の続きますが、紫陽花が色鮮やかに咲き競い出しました。ワクチンの接種が始まったとはいえ、新型コロナウイルスの話題で鬱々と心も晴れぬ日々かと存じますが、どうか、梅雨晴れの青空を期待され、日々の生活におつとめくださいますようお願いいたします。


 人生には「順風」の時もあれば、「逆風」が吹くこともあります。どちらかだけが、延々続くことはなく、風は絶妙なタイミングで吹き分けます。順風なら追い風として進むことができるでしょうが、逆風なら知恵を絞り工夫しなければなかなか前には進みません。でも、人生、追い込まれた時だからこそ瞬発力が生まれることもあります。ならば、「逆風もまた良し」と前向きに頑張っていただきたいのです。


 「一言芳恩」という言葉があります。ひと声かけてもらったことを忘れずに感謝することです。時には、あの日あの時、あのひと言、あの思いが人生を変えることもあります。傷ついた時、生きているのが嫌になった時、「大丈夫」という言葉に助けられた方々も少なくないでしょう。まさに言霊の威力です。


 コロナ禍で生活に苦慮する方々は、猛烈な逆風の中、出口の見えぬトンネルを、たった一人で歩んでおられるかのごとく暗澹たる毎日でありましょう。そんな時、「もう少しのご辛抱ですよ」という温かい励ましの言葉は、何にも勝る、闇夜の光明になるに違いありません。


言葉は刃物―――。時として人を切り、血を流すときもありますが、言葉にまた励まされ、生かされることも事実です。多くの人との巡り合いのなかで、「ご恩返しに、今度はお励ましする側に回ろう」と私は決めました。
激励の言葉を紡ぐ。これこそが一言芳恩、連綿と続くかけがえのない善根の積み重ねになるのではないでしょうか。


 コロナと闘うすべての人へ。お励まししようとする気持ちが、そして言葉が、真心は、未来永劫受け継がれて参るのです