牧之瀬雅明・禅語と季節のブログ

季節の花々と人生を重ねて

一休さんと禅語「教外別伝不立文字」

「教外別伝」は、釈迦の言葉による教えのほかに、心から心へと直接に伝えられ得るもののことを言い、「不立文字」とは、真理は概念で規定し得るものではない、という意味です。



ともに禅宗の核心をつく言葉です。



 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の初めから半ばにかけての禅僧です。江戸時代に、子どものころの逸話としてとんち話が作られて広まりました。その一休は、6歳のときに京都の禅寺、安国寺(あんこくじ)に入り修行をつみました。文に優れ、後に京都・大徳寺の住持をつとめるなど、禅僧として名をなしました。それだけでなく、既存の権威を怖れない自由奔放な生き方が、戦乱の続いた室町時代の混乱した世相に訴えかけるものがあったため、多くの人から帰依されました。



そんな一休の人柄を示すエピソードはたくさんあります。実際にあったお話ですが、一休は街中で木の剣を手にして歩いていました。剣は、人を殺すためのもの。なぜそんなものを持って歩いているのか、と人びとが聞いたところ、一休は「いま世の中にいる偽の坊さんは木の剣のようなものだ。鞘の中に入れれば真剣のようにみえるけれど、こうして抜いてしまうとただのぼうきれだ。人を殺すこともできやしない。ましてや、人を生かすことなどできやしない。」 



「教外別伝不立文字」(きょうげべつでんふりゅうもんじ)は、真の教えは人から人へ、言葉ではなく心で伝えられるものである、という禅の考えを示したものです。


言葉は時に曲解され、誤解され、あらぬ糾弾を受けるもの。今のSNSがその代表例でしょう。

弱肉強食の逆 禅語「小魚呑大魚」を考える

本日の禅語「小魚呑大魚」(しょうぎょ たいぎょをのむ)



サッカーで言うところの「ジャイアントキリング」の意味でしょうか?


普通の世界では、逆ですね。「大魚呑小魚」となるのが普通でしょう。


辞書にも「小魚は大魚の餌となる」ことから、弱者は強者の犠牲になることが世の中の常道であるという事、つまり弱肉強食の意味とあります。


では禅語の「小魚呑大魚」とは、どんな意味なのでしょう。
弱肉強食のこの世の中で、小魚が大魚を呑むなど、そんな逆の出来事などあろうはずがない。
あれば奇跡でしょう。
では、ありえないことが起こるためには、どうすれば良いのか?


ある方は世界の動物の「弱肉強食」をピラミッド型に見た時、人間は決してピラミッドの頂点にはいない、むしろ下位層のグループだ」と言いました。
決して腕力が強いわけでもなく、大きな牙もありません。動物を捕食するためには道具を持たなくてはなりません。つまり、この道具、工夫と知恵こそ、人間が他の動物を捕食するチカラとなるわけです。


例えば10メートルを超すクジラと人間を比べると大魚はクジラ、小魚は人間でしょう。しかし、人は、様々な道具を使って大魚を仕留めます。
「小魚呑大魚」とは、できそうもないことを最初から諦めるのではなく、知恵と工夫と努力と根性と・・・チャレンジ精神で挑むことではないでしょうか?


禅語の解釈とは、その言葉の真の意味を文献で探すことより、自らの直感と読解力で読み解けば良いのだと思います。


最初から諦めることなく、知恵と根性で立ち向かう。そんな勇気をもらえるような禅語だと解釈しました。

秋の月「月白風清」とコロナ報道

月白風清(つきしろくかぜきよし)



 9月も下旬となり、柿の実が色付き始め、そのはるか上空を秋の雲がゆっくりと流れます。夜になると眩い月が街を神々しく照らし、天地自然の恵みを感じずにはいられません。凌ぎやすい秋を迎え、心地よい日々が続きます。


 旧暦八月十五日(今年は九月二十一日)の月を「中秋の名月」と呼びます。古来より日本人は、その十五夜の前後の月を十三夜、小望月、十六夜、立待月などと一夜一夜に名を付けて愛(め)でてまいりました。それほどまでに秋の月は身近な存在であったのでしょう。


中国宋代第一の詩人であり、書家でもある蘇軾(そしょく)の著作「後赤壁賦(こうせきへきのふ)」の一句に「月白風清」という秋の月にちなんだ言葉がございます。晴れ渡った空に浮かぶ白い雲。澄んだ空に凛とした月の姿。汚れなき美しい心を喩えた言葉で、何事にもとらわれない自由で清々しい境地を表現しました。月と風が表すのは、ありのままの心です。


実際の詩文は、「客有れども、酒無し、酒有れども肴無し。【月白く風淸し】、此の良夜を如何(いかん)せん」の一節です。


くだけて訳すと、「おいおい、せっかく友達と三国志で有名は赤壁に来たのにさ、酒がないとはどういうことォ。まぁ、酒はさ、かみさんに頼んで何とかするとしてもさ、かんじんの酒の肴がないじゃん。もう、『月は白く冴え 風は爽やかに吹く、素晴らしき夜』も、これじゃあ台無しじゃん!」との文です。
その後、蘇軾の奥様が気を利かして酒を持ってきたし、たまたま船に仕掛けていた網に、鱸がかかったので、無事に宴会は開かれたみたいです。


秋の夜長を心穏やかに過ごしたいところですが、今、新型コロナウィルスという災禍が世界を震撼させる中で、テレビを見れば感染者数や重傷者数の増減という数字にばかり注意を奪われてしまいます。いつしか目線が下ばかりを向いていませんか。
だれも雲や月を見上げる余裕もありません。


このような時こそ、秋の空を見上げて、明るい未来に思いを向け、自然の営みと天地父母の恵みという二つの恩沢に感謝することを忘れてはなりません。


 私達はコロナなど病苦という逆境に出会うと心が挫けるのが常です。
そして、その心を挫くのが雑念です。
「悩む必要のないことに悩む」という雑念が心を苦しめ、結果的に自分が負けてしまうのです。
「月白風清」は雑念を追い払い、不安や迷いのない、苦難に打ち克つ強い心の有り様を教えてくれます。


澄みきった気持ちで空を見上げる日を心待ちにしています。